大工の由来


親方に聞いて来たのかのう。
良かろう、大工について、ワシが教えてやろう。

昔は一般の木造建築の職人を「右官」と呼んでいたのじゃ!!
江戸時代頃から一般の職人も大工と呼ぶようになり、

この頃からその統率者を棟梁と呼ぶようになったのじゃ。
江戸時代の大工は「デエク」と呼ばれておったそうな。

飛鳥時代に「さしがね」を考案したと言われている聖徳太子が都造りのため組織したもので、
天皇のそばで建築の「木」に関わる職を「右官」、

「土」に関わる職を「左官」と呼んでいたとも聞くのう。
現在の建設業で「左官」以外の職種は設計も含め、「大工」より派生したものがひじょ~~うに多い。
最近よく使われる「意匠」というのは、「匠(大工)」が「意図する(考えた)」という意味でデザイン性を表す昔ながらの言葉であるのじゃよ



大工の分類

宮大工
宮大工は、神社・仏閣の建造などを行う大工じゃ。
釘を使わずに接木を行う(引き手・継ぎ手)など、伝統的な技法により物を造る。
寺社を「お宮さん」と言っていたので宮大工と呼ばれておったそうな。

寺社大工(宮大工と同じ) 

主に木造軸組工法で寺社を造る大工でのう。
町奉行、寺社奉行という行政上の自治の管轄が違うため町大工と区別される。
いまでも、宮大工といわず寺社大工という地域もあるんじゃよ。
ただし、郊外など二つの管轄から外れる地域では、明確な区別がないともいえる。
このことから、現代でも寺社大工と町大工を兼ねる工務店も多いのじゃ。
また郊外という空間上の制限がない場所柄と、農家の顧客が主なこともあり、

町場と違い大断面の木材と基本となる間尺(モジュール)も比較的大きく、

仕口や材料も奢ったものも多く寺社建築に近かったことも要因と言えよう。
未だに築300年程の家屋も多く存在するのじゃよ。

家屋大工(木造大工・住宅大工・家大工)
一般的な木造住宅における木材・建材の加工・取り付け作業を行う大工じゃ。
 宮大工ではないが、木造住宅の墨付け・きざみ・建て方・屋根仕舞・外部造作・内部造作全般を取り仕切るバランスのとれた1人親方と職人の事を指すのじゃ。
 請負大工とも呼ばれ、各下請け業者の束ねも行う。
一般的に「大工さん」と親しみを込めて呼ばれるのは、この家屋大工である。

最近の分業制により、「木」「建材(ベニヤ・塩ビシート枠)」等の造作を家屋大工・造作大工が行い、コンピュータを使った自動機械によるプレカット木材の建前を建て方大工(鳶であることが多い)が行う住宅建築が増えている。
 外装板・石膏ボード・断熱材のみならず、天井造作・フロア張りなども専門職が行うようにもなってきている。
 また、住宅の建築を依頼する先も高度経済成長期より家屋大工から、工務店・建設会社へ移ってきているため、現在は職人を指すことが多いのじゃよ。

町大工
主に木造軸組工法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)。
 古くから日本各地では相互扶助の単位として町(町場)という共同体があり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。
 都市部の庶民のまつりごとは伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。
 こうした自治の場で町大工は冠婚葬祭の互助活動などや消火活動、祭礼(山車・神輿の作成)、橋、井戸の屋根、つるべや上水道の枡、木管や下水のどぶ板といった町内インフラストラクチャーの作成、保守などを、町鳶(とび職)と協力して担ってきた。
 現代で言えば基盤を大工が作り、行事を鳶職が行ったといえる。
 普請においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが不文律でありそれをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。
 またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある。
 しかし町の中でも商店や職人を積極的に贔屓にするが、不文律の拘束は弱く、町鳶、町大工などの「町」を冠する職方には我々の町の、という誇りをこめたニュアンスがある。
 寺社大工と良く比較されるが、確かに工具の豊富さや砥石一つとっても寺社大工のように数百万円もするようなものを持つ者も少ないが、都市部の限られた空間と時間と予算の制約の中で技術を培ってきたのも間違いなく、築100年以上の三階建て住宅も現存する。

2×4(ツーバイフォー)、プレハブ大工

主に木造枠組壁構法で家屋を造る大工。
近年アメリカで開発され技術導入された工法である。
企業の枠組みの中に組み込まれており地域密着型でないため、町大工とはいえない。

数寄屋大工
茶室を造る大工。
 主に木造軸組工法で茶室風を取り入れて家屋を造る(数寄屋造り、書院造りという)。
侘び寂びや花鳥風月といった粋や趣を表現し、実用一辺倒ではない細工や材料を用いる。
 茶室に限らず趣味人の大店や商人などが、蔵やはなれ、母屋や料亭、旅館までも用いた。
 緻密な細工物が多様されるので建具大工の素養が必要だった。
 また抱える職方も特殊で特に左官屋などは鏝によるレリーフ(鏝絵)を作る事が出来た。
 また茶室には欠かせない炉を専門とする炉壇師という職人もいる(今では日本に数人しかいない)。
 町大工は社会的な役割が強く顧客も庶民であった為、実用的で寺社大工も神社、仏閣の様式美が決められていた。
 それに対し数奇屋大工は予算的にも自由が利き、今で言えば芸術家肌といえる。

建具大工(表具屋、建具屋)
建具大工は、障子・ふすまなどの製作を主とする大工。
欄間を作る大工は彫り物大工とも呼ばれ専業になっているが、需要がなくなっているため技術継承者がいない。
 昔の家屋大工より派生した専門職種である。
 ふすまや障子、畳などは、現在と違い「動産」であったので借家住まいの店子は、引越しの度、これらを持ち回った。
 この様な事から顧客層に違いが生じ、家屋大工と建具大工の分業を進めた要因といわれる。

家具大工(箪笥職人、家具職人)
家具大工は、家具を作る大工。
主に葛籠(竹製ではない)、ちゃぶ台、茶箪笥、箪笥(階段箪笥、薬箪笥)などを造っていた。
家屋大工は昔から四方転びと呼ばれる踏み台の出来で腕前を評価された。
この様に小さな家具も日常的に造っていたので昔は家具大工と明確な区別がなっかたが現在は分業している。明治維新以降、神戸と横浜では西洋家具が造られる様になった。
横浜では駕篭、馬具職人が転職したのに対し神戸では中国、四国地方を中心とした船大工技術を伝承する塩飽大工という寺社大工集団の一部が転職したといわれている。
この様なことから和箪笥職人と西洋家具職人と区分けされる由縁である。

船大工
船大工は、木造船(和船、帆掛け舟、屋形船)の建造などを行う大工。
現在、純木造船は少なく、技術を伝える者はほとんどいない。
漁師町では大工と船大工を兼業する者も多く社会的な役割も町大工に近かった。
また非常に稀であるが日本各地の漁師町では洒落なのか軸組みの技術が無い者が造ったのか材料の入手の問題であったのか解らないが、船大工の工法を使った家屋が見受けられ、現代の建築基準法や工法に当てはまらずシェル構造に近い家があり、極端にいえば船底のない船が建っているといえる。
昭和40年頃までは、各地の商業港の近郊河川でだるま船(運搬船)を改築し水上生活をする者が多数みられ木造船は身近であった。

型枠大工
型枠大工はコンクリート打込み用の型枠を作りこむ大工。
180x90cm厚さ12㎜の合板(コンパネともいう)と30x45cmの角材を釘で接合し内外両面を一定間隔の内法を内法保持金物(セパレーター)で確保し型枠をつくる。
コンクリート重量で変形破壊しないように単管(鋼管)と鎖、支持鋼管で外側から圧縮力若しくは下方から支持力をかけるという作業をする。

一般には細かい造作よりも、いかに速く仕事を行うかが勝負とされるが、打ち放しなど表面仕上げの精度が要求される場合、塗装合板(片面が平滑)などを使うが、型枠大工の技量と、左官・土工・監督の技術連携が成否を左右する。
戦後、朝鮮半島より技術が伝わり、当初は家屋大工を組織して鉄筋まで行っていたが、RC造(鉄筋コンクリート造)の構造体型枠パネル専門の大工となった。
昭和30年代まではラス板と呼ばれる木材を寄せ合わせてコンクリート用の枠を型どっていたが、現在は東南アジアで生産されている通称コンパネと呼ばれるラワン材を主とする積層パネルと補助桟と呼ぶ木材で型枠パネルを組み立てている。

造作大工
造作大工は、主にRC造等の住宅やマンションの内部の造作を行う大工。
造作とは主要構造部(梁、柱、土台、小屋組、階段)以外の壁、床、天井、窓枠、巾木等をさす。
50年代頃より壁・天井の造作が軽量鉄骨工事に切り替わり、大工仕事は木材を使う部分に限られてきた。
店舗を作る大工(内装大工ともいう)も造作大工であるが、専門知識が別に必要となる。
家屋大工との違いは、墨付け・きざみ・建て方の技術を習得している大工であるかそうでないかで判断すべきであろうが、現実には家屋大工と兼務する場合が多い。

 

棟梁

棟梁は大工の職長・親方。木造建築物の采配を行う責任者。
日本建築の屋根の重要部材(棟と梁が主)は親方が墨付けし、棟上げ式の長でもあることからそう呼ばれる。
(棟梁は集団の統率者を指す言葉でも用いられ、例えば武家の棟梁=征夷大将軍である)。

 

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